ベタニアの香油 


 「イエス=救世主」 はキリスト教の信仰の基本のひとつである。 例えば 「ペテロ、信仰を言い表す(mat16.13-20, mar 8.227-30, luk 9..18-1)」というトピックで、なぜ彼が信仰を宣言したことになるかと言えば、それは「あなたはメシアです」 と言ったからに他ならない。
 ではイエスがキリスト、すなわちメシアであるとするならば(その意味通りに)油を注がれし者」であったのであろうか。 確かにマタイマルコそれにヨハネの福音書には「ベタニアで香油を注がれる」、またルカには(かなり内容が違うが)罪の女の塗油」というトピックがある。 それぞれの記事を比較してみよう。
新約聖書・新約聖書翻訳委員会訳(岩波書店発行)より抜粋
マタイによる福音書
(26.6-13)
マルコによる福音書
(14.3-9)
ルカによる福音書
(7:36-47)
ヨハネによる福音書
(12.1-8)
6. ところで、イエスがベタニアでらい病人シモンの家にいた時、 3. さて、彼がベタニアでらい病人シモンの家にいた時、食事の座に横になっていると、 36.さて、ファリサイ人たちのある者が、自分と共に食事をしてくれるようにと、イエスに頼んだ。 そこでイエスは、そのファリサイ人の家に入り、食事の座に横たわった。 1.さて過越祭の六日前、イエスはベタニアに来た。 イエスが死者からよみがえらせたラザロがいたところである。2.ここで人々は彼のために食事の席を設けた。 マルタが給仕し、ラザロは彼と共に席で横になっている人々の一人であった。
 「いつ?」つまり時期としては、マタイとマルコはユダが裏切りを決意して祭司長のところに行く前に、ヨハネは過越祭の六日前、つまり三者共に処刑直前の出来事としている。 それに対しルカだけはごく初期のエピソードとして福音書の前半に置いている。
 また「どこで?」つまり場所についてはマタイ、マルコ、ヨハネはベタニア(Bethania エルサレムからエリコ方面へ3Km程いった場所にあった村)、そしてマタイ、マルコはらい病人のシモン、またヨハネはイエスが死から甦らせたラザロの家でマルタが給仕をしていたとしている。 それに対してルカだけが(後にシモンと呼ぶ)ファイサイ人の家としているが、地域は限定していない。
7. 高価な香油の入った石膏の壺を持った一人の女が彼に近寄ってきた。 そして、食事の席で横になっている彼の頭の上に香油をそそぐのであった。 きわめて高い値の、純正のナルド香油の入った石膏の壺を持った一人の女がやって来た。 そして、その石膏の壺を砕き、彼の頭に香油を注ぐのであった。 37.すると見よ、その町で罪人であった一人の女が、彼がそのファリサイ人の家で食事の座に横になっていると知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、38.後方から彼の足元に進み出、泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自分の髪の毛でそれをいくども拭き、さらには彼の両足に接吻し続け、またくり返し香油を塗った。 3.さてマリアムが純粋で高価なナルド香油リトラ(約32g)を取ってイエスの足に注ぎ、自分の髪でその足を拭った。 家は香油の香りで満たされた。
 「誰が?」についてマタイとマルコは一人の女というだけで何も告げないが、ヨハネはマルタの妹マリアム(マリア)、そしてルカは罪深い女としている。
 また「何を?」としてマタイは高価なひと壺の香油を、マルコはひと壺のナルド香油を、ルカは壺に入った香油を、ヨハネは高価なナルド香油1リトラを、としている。 勘ぐればマタイとマルコは多量の高価な香油が注がれたことを強調したいのに対して、ヨハネは続くユダの反応を際立たせたいのであろうか。
 そして「何をした?」はマタイとマルコは頭から注いだとするのに対し、ルカとヨハネは足に注ぎそれを自分の髪で拭いたとしている。
8. しかし弟子たちはこれを見てひどく怒って言った、「何のためにこのような無駄遣いをするのだ。9. これを高く売って、乞食たちに与えてやることもできたのに」。 4. すると幾人かの者がお互いの間でひどく怒った、「何のためにこのように無駄遣いしたのか。5. この香油は三百デナリオン以上の値段で売って、乞食たちに与えてやることもできたというのに」。 そして彼らは、彼女に対して激しく息巻くのであった。 39. しかし彼を招待した例のファリサイ人はこれを見て、自分の中で言った、「万が一にもこの人が預言者であったなら、自分に触っているこの女が誰で、どんな類の女か知り得たろうに。 この女は罪人なのだ」。 4.彼の弟子たちのうちの一人、後で彼を引き渡す事になる、イスカリオテのユダが言う、5.「なぜ、この香油は三百デナリオンで売られ、貧しい人々に施されなかったのか」。6.彼がこう言ったのは貧しい人たちのことを心にかけていたからではなく、盗人であり、金庫番でありながら、その中身をくすねていたからである。
 ではそれに対する反応はどうだったのだろうか。 マタイが弟子たち、マルコが幾人かの者が無駄な事をしたと怒ったのに対して、ヨハネはユダが金庫番をしていたので怒り、ルカはシモンが心の中で、それが罪深い女によって行われた事について疑念を起こしたとしている。 つまりマタイとマルコはこのトピック自体に注目しているのにたいして、ヨハネはこの後に起こるユダの裏切りの原因の説明をここに求めているようにも読めるし、またルカは次にイエスが語る譬えの切り出しとしてこのエピソードを使っているかのようだ。 ちなみにマルコとヨハネはこの香油の値段を300デナリオンとしているが、これは当時の日当が1デナリオンであったことから、殆どひとりあたりの年収に近い。 またそれはユダの裏切りの代償の(マタイに従えば銀貨30枚、すなわち銀貨一枚が1デナリオンであることから)10倍の額になる。
10. しかしイエスはこれを知って、彼らに言った、「なぜこの女性を困らせるのか。 実は、私に対して良いことをなしてくれたのである。11そもそも、乞食たちはいつもあなたたちと共にいる。 しかし私は、いつまでもあなたたちのもとにいるわけではない。12.つまり、この女は自ら、私の体のおもてにこの香油をかけてくれたが、それは私を埋葬するためだったのである。13.アーメン、私はあなたたちに言う、世界中でこの福音が宣べ伝えられるところはどこでも、この女自身の行ったこともまた、その記念として語られるであろう」。 6.しかしイエスは言った、「この女をそのままにさせておくのだ。 なぜ、この女を困らせるのか。 私に良いことをなしてくれたのだ。7. そもそも、乞食たちはいつもあなたたちと共におり、あなたたちはいつでも望む時に彼らに尽くしてやることができる。 しかし私は、いつもでもあなたたちのもとにいるわけではない。8.この女は、自分にできることをしてくれたのだ。 つまり、埋葬に向けて、前もって私の体に香油を塗ってくれたのだ。9.そこで、アーメン、私はあなたたちに言う、世界中で福音が宣べ伝えられるところではどこでも、この女自身の行ったこともまた、その記念として語られるだろう」。 40.するとイエスは応えて、彼に対して言った、「シモンよ、あなたに言いたいことがある」。するとシモンは言う、「先生、仰言って下さい」。41.「ある金貸しに、二人の債務者があった。 一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオン借りていた。

【中略】

46.あなたは私の頭をオリーブ油で拭いてはくれなかった。 しかしこの女は、香油で私の両足を拭いてくれた。47.このために、私はあなたに言う、この女のあまたの罪はもう赦されている。 それは、この女が多く愛したことからわかる。 少ししか赦されない者は、少ししか愛さないものだ」。

7. ところがイエスは言った。 「彼女のしたいようにさせてあげなさい。 わたしの葬りの日のためにそれを取っておいたことになるためである。8.あなたがたと共にいつも貧しい人々がいるが、私はいつもあなたがたのところにいるわけではないのだから」。
 さてそれに対するイエスの反応はマタイ、マルコ、ヨハネは共に、葬式の準備として香油を塗ってくれたのだから、この女を責めるなというものだ。 またヨハネではラザロとマルタ、マリアの姉妹はこのエピソードの前にラザロがイエスにより死から甦らせてもらったエピソードの重要人物として登場しイエスの旧知の友として描かれている。 つまりマリアの行動はその感謝とも読める。 ところがルカだけは設定が違うだけに、そこから長々とイエスのたとえ話が続くわけだ。
 ここでルカが述べている「ある金貸し・・・」の譬えは“多額の借金を持つ者と小額の借金を持つ者が共に借金を帳消しにしてもらったら、より感謝するのはどちらか、当然多額の借金を負っていた方だろ!”というお話。 イエス伝承のひとつだろうか? それだけで聞くなら“だからアンタも借金の額にこだわらずに帳消しにしてやんなさい”って、いかにもイエスがいいそうなお話だ。 またイエスは罪を神への借財と考えていたという。 とすればこの女は多くの神への借財を帳消しにしてもらったのだとも読める。 しかしこう続けたんでは滅茶である。 まるで罪を赦してやったんだから教会につくしなさいとでも言っているみたいになってしまう。
 ちなみにラザロの名前はマタイとマルコには登場しないのだが、ルカでは「ラザロと金持ちの譬(16:19-31)」に身体中できものだらけの乞食として登場する。 ここで気になるのはマタイとマルコが「ベタニアでらい病人シモンの家」としている事である。 ヨハネはラザロの家をベタニアとしている。 ルカはラザロは身体中できものだらけ(らい病?)という。 とすればマタイとマルコはその人をシモンと呼んでいる、とすれば全て辻褄があう。 (ルカでイエスの話し相手もシモンと呼ばれている)
 またルカではこの後にイエスに「仕える女たち(ルカ8)」の記事が続くのだが、ここには「七つの悪霊どもが出て行った、マグダラの女といわれたいたマリヤ」という記述がある。 またヨハネに出てくるマリアムとマルタの姉妹は、ルカではその少し後の 10:38-42 にかけて、いつもイエスのそばで彼の言葉を聞くのに必死なマリアムに怒ったマルタが、少しは家事の手伝いをするようにイエスに言って欲しいと頼むと、イエスが、いいではないかと取り繕った逸話が載っている。 ここからルカのいう罪深い女とは=マグダラのマリアであり、それはラザロとマルタの妹のマリアであると暗示しているようにも読める。 (これはよく知られた伝説ではあるようだが、逆に考えればここからの憶測でしかないのかもしれない)
 そしてこのページのテーマだが・・・どれにも共通することは、残念ながら(建前上は)イエスがメシアとして油を注がれたという事ではないようだ。 勿論マタイとマルコについてはその意図があるようにも読めるが、前面に出ている主張はあくまで葬式の為の準備である。

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