宗教は阿片

 『宗教は阿片だ』 確か共産主義の社会で叫ばれたスローガン。 人間はその細胞組織の中に水分や栄養ばかりを溜め込んでいるワケではない。 それよりはずっと厄介な『こころ』という要素をかかえている。 揮発性であるか否か、未だ確定されていないこの要素は、時としてその宿主ですら自分の為の器としか考えていないようなそぶりを示す。

前世紀の評価

 20世紀はこの『こころ』という未確定要素を極端な処方箋で解決しようとした世紀として記憶されるだろう。 ひとつは上記の共産主義社会であり、またひとつはその反動ともいえる純粋宗教主義だ。

設問

 『生きる』とは永遠の謎だ。 植物人間は医学的に生きている。 動くものは全て生きていると言えるかもしれない。 極論すれば宇宙とて生きているともいえる。  でも『こころ』はブッダでさえ小さな虫にまでしか認めることができなかった。 そのこころが叫ぶんだ。 「何故僕は生きているんだ?」

必然性

 これは哲学的問題なんかじゃない。 自己の生命の単純な疑問なんだ。 人生は永い。 挫折は誰にでもある。 その苦痛が『生きる事』の是非を問う。 「何故こんなに辛い思いをして生きなくてはいけないのだろうか?」 そして、その返答はない。

逆説

 逆に考えてみよう。 死は生きる者全てに平等に配布される。 もしそれを自分の望む時に得たいのなら、みずからを殺す、つまり自殺しかない。 そしてまた『死』は人生の確定も意味している。 自分の人生を全て間違いで確定してしまいたかい?・・・ せめてオレは嫌だね。

わたしの目的

 で、もしキミがわたしと同種類の人間なら、きっと生きている為の理由を探しだそうとするだろう。 論理を優先するなら共産主義者となって計画的に自らの人生を生きればいい。 また歓びを優先するなら宗教家として誰かの言葉を無心に信じればいい。 そしてわたしの欲求は生きる事の理由の探求にあった。

知覚と悦楽

 ひとつ欠けていたのはわたし自身の『感性』を認識することだった。 それは歓びを上げている。 『知覚』は歓びを観る。 『悦楽』は歓びを識る。 知覚は阿片でも得ることができる。 悦楽はそれに触らなくてはならない。 でも触れてみるだけのこと。 場所は、ホラそこだよ・・・

詩人の仕事

 そう、わたしは生きることを選択した。 解答は・・・『その質問自体が(xx したい)と(xx したくない)のどちらを選択するかという問題でしかない』・・・ キミは生きたいから生きるべきなんだ。 死はいつか訪れるだろう。 悪いけどその選択権は生きている本人にはないんだ。 でも生きるかどうかの選択権はある。

by seven Sept' 14. 2001